カテゴリ:御書の登場人物( 7 )

国府入道(こうにゅうどう)夫妻


☆子供がいない夫婦の信心.

日蓮大聖人の佐渡流罪に関するYouTubeを添付します



youtube解説「最初に戸田先生の指導があり、後半は佐渡の遺跡が紹介されています」

国府入道(こうにゅうどう)夫妻。
佐渡流罪の時、阿仏房・千日尼夫妻と共に大聖人をお守した門下の夫妻です。
当時、大聖人は念仏者らから命を狙われていました。その大聖人を外護し、純真に信心を貫いた国府入道夫妻について次のように記されています。
「私が佐渡にいる間、人目を忍んで夜中に食べ物を届けてくださいました。ある時は、国からの処罰も恐れず、日蓮の身代わりにすらなろうとしてくださいました」(趣意・1325)
夫の国府入道は、健治元年、日蓮大聖人が54歳の御時、妻からの御供養の品である単衣(裏地をつけない衣服)と阿仏房の妻から託された銭300文を携えて、はるばる身延の大聖人のもとを訪れています。さらに3年後も国府入道は身延への御供養に向かおうとします。しかし、稲刈りの時期が近く二度目の身延への御供養は断念せざるを得ませんでした。(趣意・1314)
日蓮大聖人が佐渡にご滞在されたのは2年4ヵ月です。
その滞在期間に、入信間もない国府入道が命を懸けた信心をし、流罪赦免の後、遠い身延までを旅して御供養しました。いったい、国府入道とはいかなる人物だったのでしょうか。

国府夫妻の間には子がいませんでした。
このため、「信心をしているのに子供がいないと揶揄されていた」ことが御書に記されています。さらに、「あなた方には子供がいない。蒙古の襲来があったら、身延にいらっしゃい」(趣意・1323)とも記されています。
私も子供がいないことから、国府入道の人生にはとても興味深いのです。
過去、その国府入道の御書を拝し、感じたことを記事にしています。
sokanomori.exblog.jp/11581334/

私は当時、「子供がいない夫婦のためにその使命を演じた」と感じました。
しかし、今は、その受け止め方が変わりました。子供がいるとかいないとか、お金があるとかないとか、そういうことが幸不幸を決めることではないとの確信が今の私にはあるからです。
国府入道夫婦は、末法の御本仏の大聖人の弟子になれたことに、無上の幸福を感じていたのであり、身延の大聖人にお会いし、日本一の名山の富士を感動を持って見入ったのです。
大聖人の仏の境涯にふれ、内奥の仏の境涯が感応していたのです。
その伴侶の妻も同様の境涯を得ていたと思うのです。
佐渡流罪に遭った大聖人が苦難の中で悠然と振舞われ、その大聖人から最高の仏法を直にご教示され、自界叛逆難難(じかいほんぎゃくなん)の予言が的中し、さらに赦免され、鎌倉に帰られたその年に蒙古襲来がありました。その時代の中心者たる大聖人を守り抜き、学び、生きられた幸福・・
それは何ものにも代えられない大幸福、大歓喜であったことでしょう。
私は国府入道の大確信を信じることができます。

以下に、ひらがな御書HPから、国府入道夫妻への御書2編を添付します。
hiraganagosho.web.fc2.com/b1323.html
hiraganagosho.web.fc2.com/c1324.html

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by sokanomori3 | 2017-07-23 05:56 | 御書の登場人物 | Comments(8)

東条景信(とうじょうかげのぶ)


☆立宗宣言以来の仏敵.


東条景信(とうじょう かげのぶ)。
安房国長狭郡東条郷(ながさごおり とうじょうのごう)の地頭。
念仏の強信者で、建長5年(1253年)4月28日、東条郷にある清澄寺で、大聖人が立宗宣言された時、東条景信は怒って大聖人に危害を加えようとした。
大聖人は清澄寺の兄弟子にかくまわれて脱出、鎌倉に渡られた。
景信はその後、大商人門下の大尼の領地の寺を奪おうとしたが、大聖人が味方した大尼が勝訴となった。この領地をめぐる争いもあって、景信はますます遺恨を深めた。
大聖人は建長3年(1263年)に伊豆流罪を赦免され帰郷、工藤吉隆(くどう よしたか)の邸宅に向かう途中、東条景信は数百人の兵で襲撃した。(小松原の法難)
この事件で、大聖人は頭部に深手を負われ、左手を骨折し、工藤吉隆と鏡忍房が殉教した。
東条景信は法難の後、しばらくして狂死したと伝えられる。



大尼と工藤吉隆の記事URLを以下に示します。
大尼:sokafree.exblog.jp/26805964
工藤:sokafree.exblog.jp/26881843

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by sokanomori3 | 2017-05-27 06:20 | 御書の登場人物 | Comments(0)

工藤吉隆(くどうよしたか)


☆小松原法難で殉教する.


工藤吉隆(くどう よしたか)。
安房国東条郡天津(千葉県鴨川市天津)の門下の武士です。
日蓮大聖人は、弘長3年文永元年(1263年)、御年42歳の時、1年9カ月に及ぶ伊豆流罪が許され、鎌倉に帰られました。
翌 文永元年(1264年)8月、大聖人は故郷の安房へ帰省。
母の病気平癒の祈りを捧げられました。(母は無事蘇生)
大聖人はしばらく故郷に留まり、弘教されました。
同年11月11日、大聖人は10人ほどの共を連れて工藤吉隆の屋敷に向かいました。
その途中、午後5時ごろ、大聖人一行が松原大路(小松原)で、待ち伏せしていた東条景信(とうじょうかげのぶ)の軍勢に襲撃を受けました。

念仏の強信者であった東条は、大聖人の「念仏無間」の破折に激しい憎悪を持ち、また、大聖人門の大尼との領地の支配権に敗北した恨みもあって襲撃したと考えられます。
領地問題の記述は以下のURLを参照ください。
sokafree.exblog.jp/26805964

待ち伏せの東条軍の数は「数百人」(1498)。
「(敵が)射る矢は降る雨のようであり、打つ太刀は稲妻のようであった」(1498)と仰せのように、10人を数百人の軍勢が襲ったのです。
この襲撃に対し、工藤吉隆は死力を尽くして戦い殉教します。
大聖人の弟子の僧・鏡忍房(きょうにんぼう)も死亡しました。
大聖人ご自身、額に深手の傷を負われ、左手を骨折されました。
大聖人は当時のことを「もはやこれまでという有様であったが、どうしたことであろうか、打ちもらされて今まで生きている」(1498)と記されています。

生前、工藤は「四恩抄」(935)を与えられています。
この御書は伊豆流罪中、弘長元年(1261年)1月16日にしたためられた御書です。
hiraganagosho.web.fc2.com/a935.html
大聖人は四恩抄の中で「流罪という難を受けていることは法華経の行者であることの証明である」と述べられています。
(以上、2017年大白蓮華6月号を参考に記述)

所感:大聖人門下で、最初の殉教者を出した小松原法難。
11月中旬の午後5時は、すでに日が落ちていた時刻でしょう。
薄暗い林の中から、無数の兵士が襲いました。
日蓮大聖人をお護りするために、おびただしい数の敵と戦う吉隆・・
もし、吉隆がいなければ大聖人の命はなかったでしょう。



大聖人門下の紹介カテゴリのURLを以下に示します。
http://sokafree.exblog.jp/i46

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by sokanomori3 | 2017-05-26 05:31 | 御書の登場人物 | Comments(2)

光日尼(こうにちあま)


☆子を失った母の信心.


光日尼(こうにちあま)は安房国東条郡(千葉県)の在家信者です。
夫に先立たれ、武士である息子(弥四郎)にも先立たれました。
息子は「容貌も立派で素直」な誉れの息子でした。
弥四郎は光日尼ととともに大聖人の弟子でした。

弥四郎(やしろう)は、主君に仕える武士でした
このため何らかの戦(いくさ)に参加するように命じられていたようです。
弥四郎は大聖人に手紙を書きました。
「弓矢をとる人に仕えていて暇(いとま)がない上、事が急になり申し上げます。
世間は無常です。自分はいつ死ぬかも知れません。
私は武士ですから言い渡されれば逃げることはできません。
しかし、後生を思えば恐ろしくて仕方ありません。
どうか、お助け下さい」

このことに大聖人は経文を引いて指導されています。
その指導を受けて、弥四郎は問題を解決します。

それから時が過ぎ、一通の手紙が大聖人のもとに届きました

母の光日尼からの「弥四郎の訃報」の手紙でした
息子の死から2年を経ていました。
光日尼は大聖人に質問しました。
「弥四郎は人を殺した者なので、後生はどのような所に生れるのでしょう」
大聖人は返書をしたためられました。
「この訃報を知り、まるで浦島太郎の玉手箱を開けたようでした」
同苦され、希望の灯をともしていく返書でした。
「大きな罪であっても、悔い改め妙法を行じるならばその罪は消える」
「たとえ人を殺し“悪人”と呼ばれようと、あなたが追善を行なえば成仏できる。
まして弥四郎は法華経を信じていたのですから、親を導く身となられるでしょう」

光日尼は、大聖人の御指導に触れて一途に信心に励みました
数年後には、悲哀を乗り越えた体験をしたため、大聖人に手紙を出しました。
大聖人はその御返事に次のようにしたためられました。
「心の月は曇りがなく、身の垢は消えられた。あなたは即身の仏です」
「今、光日上人は、わが子を思うあまり法華経の行者になられました。
母と子は必ず共に霊山浄土に参ることができるでしょう。
その時の対面はどんなにか嬉しいでしょう」

光日上人(こうにちしょうにん)とまで讃えられた光日尼の信心。
現代において病気や事故で家族を失う、子供に先立たれることもありましょう。
その苦難にどう立ち向かうのか。
そのことを今に伝える光日尼の人生です。



<関連御書>
光日房御書(こうにちぼうごしょ)926ページ.
光日上人御書(こうにちじょうにんごしょ)932ページ.
光日尼御返事(こうにちあまごへんじ)934ページ.

大白蓮華2017年5月号を参考に作成いたしました。

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by sokanomori3 | 2017-05-05 05:01 | 御書の登場人物 | Comments(3)

大尼・新尼(おおあま・にいあま)


☆信心の強弱を今に伝える.


安房国(あわのくに)東条郡(千葉県鴨川市)在住の門下。
「新尼」「大尼」の名称から、嫁・姑(しゅうとめ)の関係と考えられます。
大尼は、東条郡内の荘園の領主であったと推定されます。
大聖人は「日蓮が父母等に恩をかほらせたる人」(896)、「日蓮が重恩の人」(906)と仰せであることから、大尼は大聖人の両親をお世話しており、大聖人をも援助していたようです。
大聖人が立宗宣言された建長5年(1253年)前後、東条郡の地頭であった東条景信(とうじょうかげのぶ)が大尼の領内の寺を奪うなどの争いが起こりました。
支配権をめぐる訴訟と考えられ、大尼はこの時、大聖人に助けを求めます。
大聖人の支援で、大尼は窮地を脱します。
このとき、大尼と新尼とが帰依したと推測されますが、文永8年(1271年)に竜の口法難と佐渡流罪となり、やがて大尼は信心から離れてしまいます。
大聖人はこのことを「(大聖人が大尼に)手紙を出したとしても尼御前はあまり懐かしくはおもわないのでしょう」(891)と記され、弾圧の渦中、大聖人と距離を置こうとする大尼の心中がうかがえます。対して、新尼は信心を捨てませんでした。
それどころか佐渡にまで御供養をお届けしています。
文永11年(1274年)3月、大聖人は佐渡流罪が赦免となられ、さらに同年10月、蒙古軍が襲来(文永の役)、大聖人の正しさが誰の目にも明らかになります。
すると、信心から遠ざかっていた大尼も、再び信心をするようになりました。
翌、文永12年に大尼は大聖人に「御本尊の授与」を願い出ます。
しかし、大聖人は「難の際に退転した大尼には授与することはできない」と断られました。
大聖人は、たとえ多大な恩を受けてきたとしても、大尼に御本尊を授与すれば、ご自身が法義を曲げた「偏頗の法師」(907)になってしまうとされています。
一方、新尼には御本尊を授与されました。
結果的に新尼経由で御本尊は授与され、大尼も御本尊を拝することができました。
御本尊を授与するか否かの境目は、「師である大聖人と共に難に屈せず妙法を広める覚悟」、つまり「広宣流布の信心」があるかどうかを教えられたとも拝せられます。

まっすぐに師を求める信心が光った新尼に対し、中途半端な大尼の信心は、その後もなかなか直りませんでしたが、それでも大聖人は粘り強く指導を続けられました。



関連御書
大尼:「大尼御前御返事」(908)
新尼:「新尼御前御返事」(904)

大白蓮華2017年4月号を参考に作成いたしました。

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by sokanomori3 | 2017-04-22 05:55 | 御書の登場人物 | Comments(0)

鳩摩羅什(350~409年)


☆鳩摩羅什(くまらじゅう)の人生.


法華経を翻訳した訳僧・鳩摩羅什(くまらじゅう)。
彼が訳した経典は35部、294巻に及ぶ。
翻訳において、羅什は「正法蓮華経」を「妙法蓮華経」と訳した。
「正」を「妙」と訳した羅什の法華経は、天台(538から597年)、伝教(767から822年)、日蓮大聖人(1222から1282年)に渡り、現代に受け継がれた。
今、羅什より1600年を経て、192ヵ国地域で妙法蓮華経は唱えられている。
以下に、鳩摩羅什の生涯を年表にして申し述べる。

350年 羅什、亀茲国(きじこく)、現・クチャに生れる。
     父はインド出身の貴族である鳩摩羅炎(くまらえん)。
354年 母・耆婆(ぎば)とともに7歳にして出家。
351年 羅什、母とともにガンダーラに留学し大乗仏教(だいじょうぶっきょう)を学ぶ。
363年 亀茲国(きじこく)に帰国。以後、羅什の天才は西域にとどろく。
384年 羅什、亀茲国を攻略した呂光(りょこう)の捕虜となる。
     以後18年間で涼州での生活を余儀なくされる。
401年 羅什、長安(ちょうあん)に入る。(51歳)
402年 禅経、阿弥陀経、新賢劫経(しんけんごうきょう)などを翻訳。
     大智度論の訳を始める。
403年 新大品経(しんだいぼんきょう)を翻訳。
404年 百論、十誦律(じゅうじゅりつ)を翻訳。
405年 仏蔵経、大智度論、菩薩蔵経などを翻訳。十誦律を再訳。
406年 維摩経(ゆいまきょう)、妙法蓮華経、華子経を翻訳。
407年 自在王経(じざいおうぶつきょう)を翻訳。
408年 新小品経(しんしょうぼんきょう)を翻訳。
409年 中論、十二門論(じゅうにもんろん)を翻訳。8月20日、羅什没す。(享年60歳)

羅什は二十歳のころ、諸国の王がひれ伏して教えを懇願したという逸材だった。
呂光(りょこう)による18年間の幽閉生活を経て、新しい国王に迎えられて長安に入ったのは51歳のときである。
以来、60歳で没するまでの8年間が羅什の本懐の時期である。
長安に入ってからの翻訳作業は、羅什一人で行なわれたものではない。中国中の優秀な人材を集め、その数は500人とも言われるような学僧たちと意見を交換し、切磋琢磨し合って、膨大な経典の漢訳を成し遂げた。

羅什はインド人でもなく漢人でもなかった。
混血の人であり、長安においてはまったくの異国の人であった。
人類のための大業が、国籍や民族性を超えて行われたことの意義は大きい。




所感:法華経は釈尊によって8年説かれた。
鳩摩羅什は最後の仕事が8年間であった。
大聖人は51歳で開目抄(かいもくしょう)を顕され、61歳でご入滅なされている。
鳩摩羅什は51歳から翻訳を開始し、60歳で没している。
不思議なる一致である。
鳩摩羅什の別記事は、→ここをクリック!

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by sokanomori3 | 2015-04-03 06:52 | 御書の登場人物 | Comments(7)

四条金吾(しじょうきんご)


☆四条金吾と日眼女(にちげんにょ).

四条金吾の正式な名称は、四条中務三郎左衛門尉頼基(しじょう なかつかさ さぶろう ざえもんのじょう よりもと)です。
略して四条金吾(しじょうきんご)と称されました。
江間家に仕え、武術にも医術にも卓越した人物でした。
27歳のころ日蓮大聖人に帰依し、竜の口の法難(たつのくちのほうなん)においては、大聖人の馬のお供をしました。
文永(ぶんえい)9年(1272年)2月には、佐渡流罪中の大聖人を訪ねました。
大聖人が身延へ入られた同11年(1274年)9月、金吾は主君の江間氏を折伏します。
しかし、江間氏は浄土宗の信者であると同時に、極楽寺良観の信者でもあり、結果、迫害を受けました。
建治3年(1277年)6月、金吾は徒党を組んで乱入し、法座を乱したと讒言され、江間氏から「法華経の信仰を捨てなければ所領を没収する」と言われました。
所領は没収されても信仰を捨てないとの決意で耐え忍びました。
その後、江間氏が重病にかかりました。
金吾は治療を施し、江間氏は重病を克服します。
この金吾の働きに主君は勘気を解き、建治4年(1278年)9月に没収されていた領地が返され、三倍の領地を得ました。
弘安(こうあん)元年(1278年)10月、病に伏せられていた大聖人を看病し、平癒させました。同5年(1282年)10月、日蓮大聖人の御入滅の際に最後まで看病にあたり、大聖人に寄り添いました。
妻は日眼女(にちげんにょ)。子は月満御前(つきまろごぜん)、経王御前(きょうおうごぜん)。日眼女は、金吾とともに大聖人に帰依して信心に励みました。
日眼女の御書は、→ここをクリック!

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by sokanomori3 | 2015-03-25 22:03 | 御書の登場人物 | Comments(0)


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