カテゴリ:御書の登場人物( 14 )

釈迦十大弟子立像の見学 感想3



☆リアルな舎利弗と目連.


以下に、立像の絵手紙の写真を添付します。
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写真解説「問答を得意とした迦旃延(かせんねん)の慈悲深い像の顔部分の写真です」

以下に十大弟子の一つひとつの感想を申しげます。

1.舎利弗(しゃりほつ)智慧第一.
 頭部がひときわ大きく、知性と共に力強さのある魅力的な表情です。
 あばら骨が見え、仏道修行に邁進した姿に大感動しました。
2.目連(もくれん)神通第一.
 十大弟子の中で、最も苦労した顔(シワが沢山ある)をしています。
 あばら骨、腕に見られる血管が生々しく、息をのむ迫力。
3.摩訶迦葉(まかかしょう)頭陀(ずだ)第一.
 苦行し抜いたことが伝わる、究極の努力家の表情です。
4.阿那律(あなりつ)天眼第一.
 シワのない顔で、ある意味、多くの仏像に見られる顔と姿です。
5.須菩提(すぼだい)解空第一.
 質実剛健な表情で、修行をしっかり果たした表情です。
6.富楼那(ふるな)説法第一.
 エラの張ったあごで、信念を強く感じる表情です。
7.迦旃延(かせんねん)論議第一.
 問答が第一の評価の対極の表情で、優しく慈悲深い表情です。
8.優婆離(うばり)持律第一.
 純朴で真面目な修行をした表情をしています。
9.羅ご羅(らごら)密行第一.
 信念、自我の強さを感じさせる表情をしています。
10.阿難陀(あなんだ)多聞第一.
 癖のない、けれど信念のある、まだ年齢も若い立像です。

舎利弗や目連、摩訶迦葉は有名ですが、その他の弟子が一同に見られ、
どれも民衆救済に命をかけて生き抜いたことが伝わる立像でした。
特に、舎利弗や目連は物凄い存在感がありました。
立像は微笑んでいません。物凄く真剣な表情ばかり。
皆、必死に民衆救済のために闘争してるのです。
この広宣流布に生きる姿こそ本物で、
他ののんびりした仏像がいかにウソか分かるというものです。

この立像を彫刻した仏師・快慶(かいけい)とは、いかなる人物でしょう。
すごい仏師だったのではないでしょうか。

日蓮大聖人が立像をご覧になられたときは、真新しく、綺麗な状態だったでしょう。
リアルな像に大聖人も「これこそが本物だ」と感じられたのではと思うのです。
約800年を経て見る十大弟子のリアルな姿・・
皆さま、これ、本当にいいですよ。
目の保養にいかがでしょう。見る価値ありですよ。
釈迦や千手観音像は「アニメのキャラクター」にしか見えず、
十大弟子は「超リアル」な本物なのです。
読者の皆さまにもぜひ見てほしいです。
リアルな人間こそ仏であり、
仏像はウソと良く分かりますから。
12月9日までやっています。

以下にシリーズの関連記事を示します。
sokafree.exblog.jp/28727934/
sokafree.exblog.jp/28730539/


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by sokanomori3 | 2018-10-16 05:42 | 御書の登場人物 | Comments(1)

釈迦十大弟子立像の見学 感想2


☆リアルな十大弟子像.


展示会で配布されていた資料の写真を添付します。
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写真解説「十大弟子の立像十体の上半身写真、展示会の説明をしている配布物の写真です」

大報恩寺の建立を果たした「義空」は、法華経の教えに基づいて寺を創建したとされ、
本尊として釈迦像、そして十大弟子を安置したとされます。
その構成は、法華経序品に描かれた霊鷲山の釈迦説法を顕したとも伝えられ、
災害の相次ぐ末法の時代に、衆生を救済する場を作ったとのこと。
この寺の建立(1220年)の2年後、日蓮大聖人は生誕されました。
以下に、日蓮大聖人年表を示します。
sokanomori.exblog.jp/19881868/

さて、私は結論から申し上げて「見学してよかった」です。
今まで仏像を見て、感動したことは一度もありませんでした。
過去、「阿修羅像」見たいと思い、結局見られなかった。
sokanomori.exblog.jp/11907119/

今回、目当ての十大弟子が、期待以上のものだったのです。
普通、仏像というのはシワがなく、つるつるした顔ですよね。
いわゆる小太りの「大仏」のようなカタチですが、この十大弟子は違うのです。
特に、舎利弗と目連は、超リアルで、あばら骨が見え、
血管もしっかりと表現され、顔にはシワが深く掘られている。
まるで、本物の人間のようにリアルな立像なのです。
今にも、動きだしそうな、動いているかのような像です。
本尊はよくある釈迦の仏像で、リアルさのない、味気ないシロモノ。
対して十大弟子は存在感があり、見ていて飽きない。

十大弟子の立像の多くは「苦労し抜いた」表情をしており、
仏道修行の厳しさと、深い信仰が発する重厚な姿に、
息を呑むといった、そんな立像なのです。
この立像を作成した快慶(かいけい)は鎌倉時代を代表する仏師で、
命がけで作成したことがひしひしと伝わるのです。

「この十大弟子たちは、確かに仏様だ」と思いました。
他のいわゆる普通の仏像は「ニセモノ」です。
シワもなく、何の苦労も修行も感じさせないシロモノ・・
でも、この十大弟子像は違うのです。
まるで、学会員そのものなのです。

次の記事は、→ここをクリック!


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by sokanomori3 | 2018-10-15 05:20 | 御書の登場人物 | Comments(2)

釈迦十大弟子立像の見学 感想1


☆大報恩寺の重要文化財.


大報恩寺の仏像展示会場の入り口と仏像の写真を示します。
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写真解説「東京国立博物館の館内、展示会で唯一、写真撮影が許可された仏像の写真です」

特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」を見学しました。
この展示会の開催場所と開催期間を以下に申し上げます。

場所:東京国立博物館・平成館 特別展示室第3室・第4室
日程: 2018年10月2日(火 ~ 2018年12月9日(日)

※上野駅から徒歩5分の国立博物館で行われています。

京都市上京区に所在する大報恩寺(だいほうおんじ)は、
承久2年(1220年)に建立され、以来、釈迦如来坐像を本尊とし、
釈迦十大弟子立像等が所蔵されてきました。
学会本部のある信濃町駅に、大報恩寺の展示会のCM看板があり、
そこに「十大弟子立像、10体そろって寺外初公開」と書かれてありました。
十大弟子と言えば、舎利弗や目連など、学会員としてはなじみがあります。
一体、どのような顔、姿なのか興味が湧き 見学したのです。

日蓮大聖人の御生誕は1222年であり、御年22歳に比叡山に遊学された時に、
この大報恩寺の十大弟子立像をご覧になられたでしょう。
そんなこともあって、ぜひ見たいと思いました。

入場料1400円を支払い、展示場に入ると、
当時の写経や、経典を納める木箱などもあり、
やがて目当ての釈迦の仏像と十大弟子の像が一同に展示されていました。
過去から、仏像はいくつか見てきましたが、十大弟子像は・・
その姿とはいかなるものだったのか・・

連載でご報告申し上げたいと思います。
地祇の記事は、→ここをクリック!


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by sokanomori3 | 2018-10-13 21:33 | 御書の登場人物 | Comments(0)

千日尼(せんにちあま)


☆阿仏房の妻の人生.


千日尼(せんにちあま)は、阿仏房の妻です。
最初は「阿仏房尼」でしたが、いつしか「千日尼」と記されるようになりました。
千日とは、大聖人が佐渡に滞在された日数に基づいたと言われています。

佐渡流罪当初、阿仏房は大聖人のもとに食料を届けます。
地頭や念仏者などが昼夜にわたって監視する中、人目を忍び、夜間に運び届けたのです。
この阿仏房を支えたのが千日尼でした。
結果、阿仏房夫妻は住まいを追われます。(1312~1314)
罰金を科せられ、屋敷を取り上げられたのです。
これほどの難を受けながらも夫妻は信心を続けました。
大聖人は、身延からの御手紙で千日尼に「いつの世になっても忘れることはありません」「亡くなった母が佐渡の国に生まれ変わってこられたのでしょうか」(1313)と讃えられています。

やがて身延の大聖人のもとに、阿仏房が訪れます。
佐渡から身延までは20日あまりかかります。
高齢の身の夫に手紙と供養のお金や品を託し千日尼が送り出したのです。
遠く、山海を越えて到着した阿仏房に大聖人は手紙を渡します。
「人は離れてしまえば、心では忘れていなくとも、遠くなってしまうものです。
ところがあなたはこの5年間、佐渡の国から三度も夫を身延の山中に遣わされました。
何というお志でしょう。大地より厚く、大海より深いお志でありましょう」(1314)

千日尼は、同郷の国府尼御前(こうあまごぜん)と共に佐渡の女性門下の中心的存在でした。
大聖人は国府尼御前に「あなたは阿仏房の尼(千日尼)と同心なのだから、二人そろってこの手紙を人に読んでもらって聞きなさい」(1324)と記され、二人が日頃から仲良く励まし合っていたことが伺えます。

大聖人は千日尼に次の御手紙をしたためられています。
「なおいっそう信心に励んでいきなさい。
仏法の道理を人に語ろうとすれば、在家の男女、出家の僧尼など、あらゆる人が憎むであろう。
かりにも憎むなら憎むがよい。(そうのように決意しなさい)
力あるかぎりは、謗法(ほうぼう)を責めていきなさい」(1308)
千日尼の確かな信心が窺い知れる御手紙です。

阿仏房は弘安2年(1279年)3月に亡くなります。
その翌年、千日尼の子息・藤九郎(とうくろう)が遺骨を携えて身延を訪れます。
大聖人は佐渡の地で千日尼への御手紙で次のように語られました。
「故、阿仏房一人を寂光土の浄土に入れることができなければ、諸仏は大苦に堕ちるに違いありません」(1320)
「(子息は)阿仏房の志を継いで立派な法華経の行者になりました」(1322)
「子に過ぎた財はない」(同上)
阿仏房の成仏と子息の成長への歓喜をお伝えになられました。

伝承によると千日尼は乾元(かんげん)元年(1302年)に亡くなったとされます。
大聖人が御入滅された20年後のことでした。

阿仏房の記事URLを以下に添付します。
https://sokafree.exblog.jp/28050271/

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by sokanomori3 | 2018-04-27 05:29 | 御書の登場人物 | Comments(0)

阿仏房(あぶつぼう)の戦い


☆権力と戦った阿仏房.


日蓮大聖人は、極楽寺良観の策謀で死罪となりました。
http://sokafree.exblog.jp/28018053/
しかし、「光もの」の出現で免れることができました。
次は佐渡流罪となられました。文永8年10月28日に佐渡に渡られました。

配流の地として定められていたのは「塚原」でした。
塚原の三昧堂は、墓所の死者を弔うための小さな堂でした。
壁が破損し、雪が部屋の中に吹き積もるという粗末な建物で、大聖人は極寒の冬を、この堂に毛皮で作った敷物を敷き、蓑(みの)を着て夜を明かされます。
着ているものは薄く、食べ物は乏しい命にかかわる状況であり、大聖人は「生きながらに餓鬼道を感じ、さらに八寒地獄に堕ちた」(1052)と述べられています。
この大聖人の身を案じた阿仏房は、同志の国府入道(こうにゅうどう)と共に、監視の目を逃れるために食料などを詰めた櫃(ひつ)を背負い、大聖人にお届けしました。
しかし、この行動により、阿仏房は罰金に処せられました。
加えて、家宅を取り上げられるという弾圧を受けます。

塚原に念仏などの僧らが数百人が集まり「塚原問答」と呼ばれる法論対決がありました。
この法論で、大聖人は圧倒的な勝利を果たされます。
このころ阿仏房夫妻、国府入道夫妻が大聖人に帰依しました。
同志の国府入道の記事を以下に示します。
http://sokafree.exblog.jp/27004785/

やがて大聖人は、初夏に入った文永9年4月に塚原から一谷(いちのさわ)入道の屋敷に移られ、以後、赦免になるまでの約2年を過ごされました。

塚原問答後、大聖人に帰依する住民が次第に増えていきました。
やがて危機感を募らせた地元の念仏者らが策謀を企てます。
それは代表らが鎌倉に出向き、幕府の高官に偽りの大聖人の悪行を訴え、「佐渡で日蓮に従う者を処罰するという偽りの御教書(みきょうしょ)を三度も出させました。
しかし、阿仏房夫妻は屈することなく大聖人を外護しました。
この阿仏房の赤誠は、大聖人から北国の導師(ほっこくのどうし)と称賛されるに至ります。

佐渡流罪中、阿仏房は「法華経に説かれる多宝如来や宝塔の出現は何を表しているのか」と質問し、大聖人は「南無妙法蓮華経と唱えれば、わが身がそのまま宝塔であり、また多宝如来となるのです」とご指導されています。
その阿仏房御書(宝塔御書)の記事を以下に示します。
http://sokafree.exblog.jp/24067328/

やがて、大聖人は佐渡流罪を赦免されます。
鎌倉に戻られ、やがて身延への入山となりました。
阿仏房は遥か佐渡から供養の品を携えて身延へ渡りました。その数は三度に及び、佐渡門下の無事と変わらぬ求道心を知った大聖人は「夢を見ているようだ」(1314)と述べられています。

弘安2年3月、阿仏房はその生涯を閉じました。
同年7月、阿仏房の息子の藤九郎が身延を訪れ、阿仏房の遺骨を身延に埋葬しました。
大聖人は後継の子息の姿を大変喜ばれました。
阿仏房の息子に「法華経の行者となり」と讃嘆されました。

(以上、大白蓮華2018年1月号を参考に記しました)

流罪先の佐渡でも、常に命を狙われた大聖人。
その状況下で支援者たちも同じく弾圧を受けました。
まさに師弟不二の証と思います。

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by sokanomori3 | 2018-01-29 05:44 | 御書の登場人物 | Comments(2)

続・富木常忍(ときじょうにん)の人生


☆700年後も同じ立ち位置.


このたび、大白蓮華10、11、12月号にて富木常忍を学びました。
その記事URLを以下に示します。
http://sokafree.exblog.jp/27834368/

平穏無事の印象だった常忍の苦悩と戦いを知りました。
その記事をまとめる中で、感じたことがあります。

富木常忍は、平穏無事だったのではない。
千人中、九百九十九人が退転するという大迫害の中、門下の中心者として大聖人を支え、かつ、大聖人の御書を命がけで後世に伝えたことを考えると、四条金吾と同等の人物でしょう。
そもそも「常忍」の名の由来はなんだったのか。
武士という立場での名だったのか、それとも信心の決意ゆえの名だったのか。
いずれにしても、常によく忍び、外護に尽くし抜いた一生でした。

幕府の要人として比較的安全な立場であったことは間違いないでしょう。
しっかりとした寺院をお持ちにならなかった大聖人は、重要な御書を自ら保管する余裕もなかったし、ひとたび弾圧されれば寺ごと破壊され、焼却される危険が常にあったことを考えると、信頼でき、かつ御書を防御できるのは檀徒門下の屋敷以外になかったのではあるまいか。

それにしても、日蓮大聖人の仏法はつくづく大変と思います。
通常、宗教は、葬式のためであり、安らぎ、なぐさめのもの。
あるいは救いを求め、救われるために、自らの利益のためにやるもの。
しかし、大聖人の仏法は違っています。

大聖人にかかわるがゆえに、迫害され、時に殉教もありうる。
工藤吉隆 (くどうよしたか ) は、大聖人外護において殉教しました。
http://sokafree.exblog.jp/26881843/
熱原(あつはら)の三烈士も殉教しました。
もし、彼らが大聖人門下でなければ殺されることはなかったでしょう。
あるいは悪口を言われ、意地悪をされ、場合によっては所領を奪われるものは数知れず。
まったく現世安穏とは真逆の人生に見えます。
これほどの苦難を受けながら、檀家が僧以上の信心を実践しました。

なぜここまで過酷なプロセスになるのでしょうか。
「利他」、「一切衆生の救済」という菩薩道だからでしょうか。
不思議なる縁にて生まれ出る地涌の菩薩からだからでしょうか。
なぜ、このような苦難をあえて呼び、生きるのでしょうか。
それは、一切衆生の救済こそがこの世の最大の幸福だから、と言えまいか。

富木常忍にせよ、四条金吾にせよ、あるいは現代の創価学会における牧口、戸田、池田三代の会長、数多くの学会員が、一同に広宣流布に生きていることは、本当に不思議なことです。
安穏な生活を捨てて、過酷な活動に生きる・・
それは、かの釈尊が王宮を捨てて仏道修行の旅に出た人生に似ています。
大聖人の時代から700年。
立ち位置は今も昔も変わりません。

私は不肖ではありますが、その末裔です。
このことが私の誇りでもあります。

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by sokanomori3 | 2017-12-09 06:04 | 御書の登場人物 | Comments(0)

富木常忍(ときじょうにん)の人生


☆四条金吾と双璧の信者.


富木常忍(ときじょうにん)は、下総の国(現在の千葉県)の武士でした。
常忍が住む下総の国には、千葉頼胤(ちばよりたね)という鎌倉幕府の御家人がいて、下総の国の軍事や行政を務めていました。常忍はこの千葉頼胤に仕える有力な家臣でした。
現在でいえば上級公務員であり、国の内情を知り抜いた人物です。
入信の時期は門下の中で最も早く、立宗宣言から間もなく入信したものと考えられています。
教養と学識豊かで、漢文でしたためられた御書を数多くいただいています。

文永8年(1271年)、日蓮大聖人が竜の口の法難、佐渡流罪の大難に遭われたとき、常忍は従者を大聖人のお供に付けました。
大聖人は佐渡への渡航の港で「寺泊御書」(てらどまりごしょ)をしたためられます。
この御書で、大聖人は法華経に説かれるがままに妙法を広めるゆえに大難に遭っていると述べられ、「一か所に集まって、この手紙で述べた法門を聞きなさい」(951)と述べられます。
従者は、寺泊から常忍のもとに帰されます。

大聖人は佐渡から、重書である「観心本尊抄」(かんじんのほんぞんしょう)を始め、「佐渡御書」「真言諸宗違目」(しんごんしょゆういもく)「法華行者逢難事」(ほっけぎょうじゃほうんなんじ)等を常忍に与えられます。
佐渡流罪中の重書に、四条金吾に与えられた「開目抄」があります。
常忍には「金吾に与えた開目抄をくれぐれも読むように」と指示されています。
このように、富木常忍と四条金吾とは学会組織のように連携がありました。

四条金吾は主君の江間氏に領地没収の大難を受けましたが、常忍も例外ではありません。
大聖人の佐渡期から身延期において、常忍の主君の戦死、母の死、妻の病気が続きました。
特に蒙古襲来時の主君の死は、常忍にとって切実な問題でした。

国家の防衛にあたり、主君の千葉頼胤(ちばよりたね)は、幕府の命を受けて九州に向かいました。(このとき、多くの家臣を伴ったと考えられます)
当時の様子を大聖人は次のように述べられています。
「とどまる妻子、行く夫、愛しいもの同士が顔と顔をすり合わせ、目と目を交わして嘆き、生木を裂かれる思いで別れを惜しんだ」(975)
文永11年(1274年)蒙古が襲来しました。
このとき、主君の千葉頼胤は負傷し、翌年37歳の若さで亡くなります。
常忍にとって、この現実は深刻かつ切実な出来事だったに違いありません。

この主君の死から半年もたたずして、常忍の母が亡くなります。
常忍は母の遺骨を抱いて、身延の大聖人を訪ねます。
このとき、常忍の妻・尼御前は病魔に悩まされていました。
このように、波のように訪れる苦難の中、都度、常忍は師匠に激励を受けながら、動乱の世を生き抜きました。

弘安2年(1279年)熱原法難(あつはらのほうなん)が起こります。
9月21日、稲刈りをしていた農民信徒20人が無実の罪で捕らえられました。法難は裁判闘争に移行し、日興上人、四条金吾、富木常忍等が総力を掲げて謀略と戦いました。
このときの訴状「龍泉寺申状」(りゅうせんじもうしじょう)に常忍の筆跡が残されています。
弁明書の草案は10枚の用紙に記さていますが、このうちの3枚が、現在の研究で富木常忍の筆跡であることが判っています。
常忍は、司法、行政文書の知識を生かし、「龍泉寺申状」の素案を書き上げていたのです。
これが身延に届けられ、日蓮大聖人が添削、加筆されたのでした。
このように師弟合作で訴状が完成したのです。
また、常忍は法難に際し、二人の大聖人門下の僧二人(日秀、日弁:にちゆう・にちべん)を富木邸にかくまい、保護してもいます。

富木常忍の功績は、後世に、大聖人の御真筆を数多く残したことにあります。安定した社会的立場であり、堅実な人柄の常忍こそ、御書を後世に伝える適任者と大聖人は判断されのでしょう。
常忍は大聖人の期待にたがわず、湿気や虫食いなどを考慮し、御書を風通しのよいものに収めるなど、保存に全力を尽くしました。

永仁7年(1299年)常忍が84歳で亡くなる直前、御書の保存に関する文書を作成します。
その文書には、「大聖人の御書は建物外に持ち出してはならない。それは物惜しみして法を説かない罪のようだが、紛失してしまえばさらに罪が重いのである。どうしても拝見する必要があるいときは、建物の中で拝するように。それなら差し支えない」と記しています。
また、「御書を収めている建物は、自分の死後も、少しも怠ることなく整備していくように」と厳命しています。「立正安国論」「観心本尊抄」など、御真筆(ごしんぴつ)の御書の現存は、常忍の並々ならぬ護法の精神の賜物です。

(以上、大白蓮華10、11、12月号より抜粋)



以上、大白蓮華の連載内容を要約しました。

最も早い時期に大聖人に帰依し、生涯、不退転で信心を貫いた富木常忍。
佐渡流罪の大聖人を従者で外護し、遠い下総の国から、熱原法難の戦いまで支援していたこと、さらに大聖人の御書を全力で守り抜く常忍の信心の姿勢に圧倒される思いです。

現代にも、富木常忍や四条金吾のような人たちがいます。
それが池田先生であり、創価学会の人々です。

今、宗教が葬式仏教に堕している時代の中、当時のままに活動しているのは創価学会だけです。
その一員であることを生涯の誇りとして私も歩みたい。
そんなふうに決意させられた富木常忍の人生でした。

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by sokanomori3 | 2017-12-08 06:06 | 御書の登場人物 | Comments(4)

国府入道(こうにゅうどう)夫妻


☆子供がいない夫婦の信心.


国府入道(こうにゅうどう)夫妻。
佐渡流罪の時、阿仏房・千日尼夫妻と共に大聖人をお守した門下の夫妻です。
当時、大聖人は念仏者らから命を狙われていました。その大聖人を外護し、純真に信心を貫いた国府入道夫妻について次のように記されています。
「私が佐渡にいる間、人目を忍んで夜中に食べ物を届けてくださいました。ある時は、国からの処罰も恐れず、日蓮の身代わりにすらなろうとしてくださいました」(趣意・1325)
夫の国府入道は、健治元年、日蓮大聖人が54歳の御時、妻からの御供養の品である単衣(裏地をつけない衣服)と阿仏房の妻から託された銭300文を携えて、はるばる身延の大聖人のもとを訪れています。さらに3年後も国府入道は身延への御供養に向かおうとします。しかし、稲刈りの時期が近く二度目の身延への御供養は断念せざるを得ませんでした。(趣意・1314)
日蓮大聖人が佐渡にご滞在されたのは2年4ヵ月です。
その滞在期間に、入信間もない国府入道が命を懸けた信心をし、流罪赦免の後、遠い身延までを旅して御供養しました。いったい、国府入道とはいかなる人物だったのでしょうか。

国府夫妻の間には子がいませんでした。
このため、「信心をしているのに子供がいないと揶揄されていた」ことが御書に記されています。さらに、「あなた方には子供がいない。蒙古の襲来があったら、身延にいらっしゃい」(趣意・1323)とも記されています。
私も子供がいないことから、国府入道の人生にはとても興味深いのです。
過去、その国府入道の御書を拝し、感じたことを記事にしています。
sokanomori.exblog.jp/11581334/

私は当時、「子供がいない夫婦のためにその使命を演じた」と感じました。
しかし、今は、その受け止め方が変わりました。子供がいるとかいないとか、お金があるとかないとか、そういうことが幸不幸を決めることではないとの確信が今の私にはあるからです。
国府入道夫婦は、末法の御本仏の大聖人の弟子になれたことに、無上の幸福を感じていたのであり、身延の大聖人にお会いし、日本一の名山の富士を感動を持って見入ったのです。
大聖人の仏の境涯にふれ、内奥の仏の境涯が感応していたのです。
その伴侶の妻も同様の境涯を得ていたと思うのです。
佐渡流罪に遭った大聖人が苦難の中で悠然と振舞われ、その大聖人から最高の仏法を直にご教示され、自界叛逆難難(じかいほんぎゃくなん)の予言が的中し、さらに赦免され、鎌倉に帰られたその年に蒙古襲来がありました。その時代の中心者たる大聖人を守り抜き、学び、生きられた幸福・・
それは何ものにも代えられない大幸福、大歓喜であったことでしょう。
私は国府入道の大確信を信じることができます。

以下に、ひらがな御書HPから、国府入道夫妻への御書2編を添付します。
hiraganagosho.web.fc2.com/b1323.html
hiraganagosho.web.fc2.com/c1324.html

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by sokanomori3 | 2017-07-23 05:56 | 御書の登場人物 | Comments(8)

東条景信(とうじょうかげのぶ)


☆立宗宣言以来の仏敵.


東条景信(とうじょう かげのぶ)。
安房国長狭郡東条郷(ながさごおり とうじょうのごう)の地頭。
念仏の強信者で、建長5年(1253年)4月28日、東条郷にある清澄寺で、大聖人が立宗宣言された時、東条景信は怒って大聖人に危害を加えようとした。
大聖人は清澄寺の兄弟子にかくまわれて脱出、鎌倉に渡られた。
景信はその後、大商人門下の大尼の領地の寺を奪おうとしたが、大聖人が味方した大尼が勝訴となった。この領地をめぐる争いもあって、景信はますます遺恨を深めた。
大聖人は建長3年(1263年)に伊豆流罪を赦免され帰郷、工藤吉隆(くどう よしたか)の邸宅に向かう途中、東条景信は数百人の兵で襲撃した。(小松原の法難)
この事件で、大聖人は頭部に深手を負われ、左手を骨折し、工藤吉隆と鏡忍房が殉教した。
東条景信は法難の後、しばらくして狂死したと伝えられる。



大尼と工藤吉隆の記事URLを以下に示します。
大尼:sokafree.exblog.jp/26805964
工藤:sokafree.exblog.jp/26881843

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by sokanomori3 | 2017-05-27 06:20 | 御書の登場人物 | Comments(0)

工藤吉隆(くどうよしたか)


☆小松原法難で殉教する.


工藤吉隆(くどう よしたか)。
安房国東条郡天津(千葉県鴨川市天津)の門下の武士です。
日蓮大聖人は、弘長3年文永元年(1263年)、御年42歳の時、1年9カ月に及ぶ伊豆流罪が許され、鎌倉に帰られました。
翌 文永元年(1264年)8月、大聖人は故郷の安房へ帰省。
母の病気平癒の祈りを捧げられました。(母は無事蘇生)
大聖人はしばらく故郷に留まり、弘教されました。
同年11月11日、大聖人は10人ほどの共を連れて工藤吉隆の屋敷に向かいました。
その途中、午後5時ごろ、大聖人一行が松原大路(小松原)で、待ち伏せしていた東条景信(とうじょうかげのぶ)の軍勢に襲撃を受けました。

念仏の強信者であった東条は、大聖人の「念仏無間」の破折に激しい憎悪を持ち、また、大聖人門の大尼との領地の支配権に敗北した恨みもあって襲撃したと考えられます。
領地問題の記述は以下のURLを参照ください。
sokafree.exblog.jp/26805964

待ち伏せの東条軍の数は「数百人」(1498)。
「(敵が)射る矢は降る雨のようであり、打つ太刀は稲妻のようであった」(1498)と仰せのように、10人を数百人の軍勢が襲ったのです。
この襲撃に対し、工藤吉隆は死力を尽くして戦い殉教します。
大聖人の弟子の僧・鏡忍房(きょうにんぼう)も死亡しました。
大聖人ご自身、額に深手の傷を負われ、左手を骨折されました。
大聖人は当時のことを「もはやこれまでという有様であったが、どうしたことであろうか、打ちもらされて今まで生きている」(1498)と記されています。

生前、工藤は「四恩抄」(935)を与えられています。
この御書は伊豆流罪中、弘長元年(1261年)1月16日にしたためられた御書です。
hiraganagosho.web.fc2.com/a935.html
大聖人は四恩抄の中で「流罪という難を受けていることは法華経の行者であることの証明である」と述べられています。
(以上、2017年大白蓮華6月号を参考に記述)

所感:大聖人門下で、最初の殉教者を出した小松原法難。
11月中旬の午後5時は、すでに日が落ちていた時刻でしょう。
薄暗い林の中から、無数の兵士が襲いました。
日蓮大聖人をお護りするために、おびただしい数の敵と戦う吉隆・・
もし、吉隆がいなければ大聖人の命はなかったでしょう。



大聖人門下の紹介カテゴリのURLを以下に示します。
http://sokafree.exblog.jp/i46

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by sokanomori3 | 2017-05-26 05:31 | 御書の登場人物 | Comments(2)


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